フリッツ・ラング監督作品「M」あらすじと感想【ネタバレあり】人民裁判の危険性
1931年公開。
フリッツ・ラング監督の初トーキー映画です。
裏家業の人間たちの会議と、警察の会議を交互に見せて話を進めるクロスカッティング手法や、緊迫したシーンではあえてサイレントにするなど、ユニークな演出がされ、凝った構図が一枚絵のようにかっこいい作品です。
この作品で注目され、後に「マルタの鷹」「カサブランカ」などの作品でキーパーソンを演じる名優ピーター・ローレが、追い詰められる連続殺人鬼を演じ、迫力ある演技で観ている側を圧倒します。
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あらすじ
しばらく前からベルリンには、子供をターゲットにした連続殺人が起こっていた。
学校帰りの少女エルジーは、いつも一緒に帰る友達を待ちながら、ひとり街角でボール遊びを始める。
つい先日に少年と少女が殺害された事件の情報提供を呼び掛けるチラシが貼ってある柱にボールを投げていると、帽子を被った男の影が彼女に近づいた。
男には口笛を吹くクセがある。
吹くのは決まって、戯曲「ペール・ギュント」の劇中曲「山の魔王の宮殿にて」だ。
エルジーを連れ歩いて、風船を買ってあげたときにも無意識に吹いていた。
一方、なかなか帰宅しないエルジーを、母親はジリジリしながら待っていた。
娘のために用意された食卓にエルジーが座ることは二度とないのでは、という母親の不安は的中する。
ひと気のない草むらの上にある電線に、エルジーが男に買ってもらった風船が引っかかって揺れていた。
新たな犠牲者が出たにも拘わらず、犯人を示す手がかりがない。
市井の人々は不安を口にし、焦る警察は無実の人間も疑ってかかり、街は不穏な空気に包まれていた。
そんな中、犯人の男は面白がるように自分の犯行を誇示する手紙を新聞社に送り付けた。
この挑発に憤慨した警察は、街に配備する警官の数を増やし、監視体制を厳しくする。
このとばっちりを受けたのが、裏稼業の人間たちだ。
事件捜査に乗じて警察は闇酒場のガサ入れを強行して、多くの仲間が拘束された。
事態を危惧した彼らは緊急招集し、自分たちの仕事を邪魔している連続殺人犯を、自分たちで捕まえることに決めた。
そして警察は、新聞社に送られた手紙についていた指紋と筆跡を分析し、犯人像を絞り出す。
包囲網が狭まってきていることに気づいていない連続殺人鬼は、次の犠牲者を物色していた。
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感想
連続殺人鬼のせいで警察の街の監視が厳しくなり、金庫破りや闇市なんかで生計を立てている裏稼業の人間たちは、自分たちでこの殺人鬼を捕まえて処刑しようと決めました。
一方、警察もまた街の安全を取り戻すために犯人逮捕に必死です。
同じ獲物を追い、情報提供や捕まえた場合は報奨金が出るのだから、裏の人たちも警察に協力を申し出れば一気に解決できると思うのですが、やはり水と油の関係のためか、むしろ警察との競争みたいになっています。
警察より先に捕まえるために、街中のホームレスたちも手駒として使うのです。
彼らは殺された少女たちへの憐憫などより自分たちの利益が優先。
ターゲットである連続殺人鬼 “M” がオフィスビルに逃げ込んだとき、なんの罪もない夜勤の警備員たちは痛めつけられます。
そのため彼らもまた警察から追われることになるのですが…
警察からすれば「仕事増やすなよ」ですよね~(;^ω^)
Mを探して床に穴まで空けて、もうこれだけで器物損壊罪で留置所だっつーの。
呉越同舟とかイヤかもしれないけど (てゆーか絶対イヤだけど) 協力していれば警備員さんも痛い思いしなくて済んだし、ビルだって破壊されずに済んだんだから、「アイツらとは絶対合わない。ムリ!」とか言って単独行動しないで、大人になれよって感じです。
どうしても合わない人と協力せざるを得ないときってあります。
すっごく気が進まないし、相手側も非協力的な態度をとるかもしれませんが、周囲に迷惑がかかることを考えれば、我慢して最後までこなそうとしますよね。
ストレスが溜まる状況ですが、周囲にも相談しながら、なんとかやり過ごしたり、どうしても無理なようなら変えてもらうように上に頼んだりするしかないです。
がんばれ( ;∀;)
この映画で一番訴えようとしていることは「群集心理の怖さ」です。
犠牲者が増える一方で、犯人がなかなか捕まらないため、街の人たち、とりわけ小さな子供がいる人たちは神経過敏になっています。
歩いているときにキックボードに乗った女の子がぶつかってきたので優しく声を掛けた紳士は、それだけで犯人扱いされて群衆に取り囲まれて責め立てられてしまいます。
誰かが「こう!」と思い込むとそれに同調して、誤認であったとしてもそれを真実と大勢が思い込み、ヒステリーが伝染する。
集団リンチが始まりそうな恐怖がそこにあります。
この恐怖はラストのほうでも展開されます。
オフィスビルで裏稼業の人間たちに捕まったMは、廃工場の地下に連れて行かれます。
そこには百人はいる近隣住民たちが集まっていました。
もちろん犠牲になった子供の親たちもいます。
強制的な人民裁判の始まりでした。
百人分の憎悪を一身に受けてMは怯みますが、逃げることは許されません。
怒号が飛び、群衆は今にもMを八つ裂きにせんばかりに興奮して、異様な光景がそこに広がります。
Mは実際に連続殺人鬼なので同情はできません。
この状況を甘んじて受け入れなければいけないほど彼の罪は重いものです。
しかし現実では冤罪事件もあったりします。
それでも群衆は自分たちの正義を信じて、証拠を精査するのではなく大多数の意見に流されて犯人を仕立て上げてしまう危険性があります。
この危険性は刑事事件だけではなく、会社や学校などのごく身近なところでも起こり得ます。
この群集心理を扇動する人は、正義感が強くリーダーシップのある人だと思います。
他人を鼓舞するのが上手いので、流されやすい人はそれに乗っかって自分の安全を確保しているようだと私個人は分析しています。
この集団ヒステリー状態は、「みんな仲良く」の考えが悪い方向に発展したもののように思えるのです。
誰かを責めることの是非についてはケース・バイ・ケースですが、流される形で同じ考えになる前に、まずは自分の頭で、自分個人の意見を考えてから行動していけたら、と思います。
群衆に責められて精神的に追い詰められたMは、殺人の動機について「自分の殺人衝動をどうしても抑えられない。だから仕方なかったんだ」と叫びます。
この動機、快楽殺人者がよく言っている印象ですが、他の欲望も抑えられないものなのかな、と不思議に感じます。
だれでも欲望と呼べるものは持っていて、食欲や睡眠欲なんかは生きていく上で当然あるものですよね。
そして出世欲や金銭欲など副次的なものも、程度の差こそあれ誰でもあるものだと思います。
その中で諦めたり抑えたりすることは誰でもやっているものですが、なぜ殺人への欲望だけは抑えられないのでしょう。
それとも他の欲望もまったく抑えることなく生きてきたのでしょうか。
…そんなバカなって思いますよね、普通に。
誰でも「食べすぎると太るから」と食欲を抑えたり、「まだやることがあるから」と睡眠欲を抑えたりして、ある程度欲望をセーブしながら生きているはずです。
殺人への欲望だけが抑えられない、というほうがなんだか可笑しい感じで、それが結局「精神に問題があると装って減刑させようと狙っている」と見えるんですよね。
やっぱり殺人者って、卑怯者です。
途中で気づいたのですが、この作品、主人公と呼べる人がいません。
ストーリーの要となるMですら、モブの一人みたいな感じなんですね。
誰でも自分の人生の主人公だけど、他の人から見たら脇役でしかありません。
どんなに珍しい経験があっても、高いスペックを持っていても、です。
みんなが脇役であり、そして脇役でストーリーは作られるのだと教えられた気がしました。
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